今年の春の選抜高校野球大会は激戦の末、健大高崎高校の優勝で幕を閉じた。春夏問わず、甲子園では数名のスター候補が登場するものであるが、過去にその一人であったこの男を皆さんは覚えているだろうか。山本武白志。第96回、第97回全国高等学校野球選手権大会(通称夏の甲子園)に出場し、甲子園では2打席連続本塁打を放つなど、そのスター性を垣間見せた。その後、横浜DeNAベイスターズから育成ドラフトで指名を受け、プロの世界に入ることになる。さらに言うと、彼の父はジャイアンツ等で活躍された故・山本功児氏であり、側から見るかぎりだと難なくその野球人生を進めていったように思える。しかし、彼には彼特有の思いがあり、かといってそれを誰かに見せるような事はしない。いわゆる『二世選手』が抱く思いを、彼の人生を振り返りながら紹介していく。
意外なことをやらされた幼少期
1998年2月17日生まれ、現在26歳の武白志は、父の影響もあり野球に触れ始めるのは早かった。特段『野球をやれ』と言われた事はなかったが、物心ついた時には身近に野球があった。『野球は生活でしたね。』と語る武白志は、自分も自然な流れで野球やるものだと、それくらいのものだと思っていた。しかし、野球ではない意外なものをやることを強制されたと教えてくれた。
『野球をやれとは言われた事はなかったんですけど、護身術として空手はやれっていわれました。ヌンチャクとかやってましたよ。でも当時は嫌で、すぐにでも辞めたかったです。』
当時の心境を正直に語ってくれた彼は、今では大の格闘技ファンである。『もう少し真面目にやっておけばよかった』と、冗談っぽく話してくれたが、何にせよ、そこには武白志を思う家族の姿があり、今の武白志と話していてもそれは十分に伝わってくる。それから小学校に入学した彼は本格的に野球を始めることになるが、そのきっかけは彼や家族の意思とは少し違った形でのことだった。
放っておかれなかった才能
小学生になった武白志少年が野球を本格的に始めたのは3年生の9月からであった。始めた時期をみると早くもなく遅くもなくといった感じではあるが、そのきっかけを聞くと少々風変わりなものであった。『父は中学から野球を始めればいいといってましたね。父自身も中2から野球を始めたんで、それもあってだと思いますが。』と、野球は生活とはいうものの、チームに入るという選択肢は第一候補ではなかったようだ。ただ、野球が好きなことには違いなかった。というのも、彼は幼馴染の父が平日の放課後に開いてくれる練習会に『体験』という形で10回以上も参加していたのである。もはや体験とはなんなのかと考えさせられるようなエピソードであるが、そこには武白志の為人が影響していたのである。『人見知りなんで、タイミングとか色々考えてたらチームに入りづらかったんですよね。それで10回以上体験に行ってました。』と、笑いながら話してくれる武白志だったが、その才能は放っておかれる事はなかった。
『その幼馴染のお父さんが、とても熱心に(チームに)誘ってくれたんですよね。その熱意に折れたというか、そんな感じでチームに入りました。』
本意ではなかったというと語弊があるかもしれないが、そんなこんなで武白志少年の本格的な野球人生が始まったのである。
有名人の息子であるというプレッシャー
チームに入り、武白志少年は当たり前と言わんばかりにその頭角を表す。チームは上からA、B、Cといわゆる3軍制の様な体系をとっていたのだが、彼は特例でBチームスタートとなる。翌年には4年生ながらAチームに所属し、その才能を存分に発揮していた。そして彼は野球の技術以上に、精神的に強かった。私は『それだけ目立つとなると、周りからの注目もあっただろうし、親がプロ野球選手ってことでも色々言われそうな気がするんだけど、そういうことに関してプレッシャーはなかったの?』と率直に聞いた。大変なことも多かったのだろうと推測しての質問だったが、その答えは私の予想とは大きく異なったものだった。
『父の影響で注目はされていたんですけど、一切プレッシャーは感じなかったですね。それは小さい時から今までずっと変わらないです。むしろ注目されないほうがモチベーションが下がるというか。物怖じしないのは昔から変わらないですね。』
普段は人見知りだが(そしてそれは今も変わらないが)、野球となったら話は変わるのだ。小学生にして、すでに大人のそれよりも強いものがあったのかもしれない。そしてこうも続けてくれた。
『例えば、「あれプロ野球選手の息子らしいよ」と周りがザワザワするとしたら、嬉しいんですよね。よし見とけよ!となるっていうか。』
野球選手としてのスタートは想像していたよりも少し早いものとなったが、この強さは中学生になりさらに洗練されていくのである。
中編に続く