SNS時代、言葉の重み

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お久しぶりの投稿になります。今回の記事は少しイレギュラーな形になります。私の中にある綺麗ではない感情もある程度書き殴っていくことになりますので、お読みいただく方はご注意ください。


ことの発端は、SNS上である男性とトラブルになった事でした。今回トラブルになったお相手をTさんとします。トラブル後、すぐTさんから直接謝罪をしたいと申し出ていただき和解に至りましたが、お話しさせていただく中でたくさん気づいたことがありました。その詳細を書き綴っていこうと思います。

ただその前に、私の得意技である結論から申し上げることをして、その後それぞれについて詳細を書いていきますね。
結論
①SNSはほどほどに
②言葉の重み 今回揉めたのも言葉、和解に至ったのも言葉
③Tさんの本気さ、トラブルになった我々の共通の思い
④知らないことが罪とは言わないが、可能な限り手を差し伸べて。

また、Tさんの想いに関して、ご本人が綴られた記事を紹介させていただきます。(以下の画像をクリックすると記事に飛びます)

それでは各々について、詳細を書いていきます。

目次

SNSはほどほどに

表題の通りですが、SNSはほどほどにした方がいいなと強く感じました。もちろんSNSが持つプラスの作用があることは否定しませんし、実際私もその恩恵を大きく受けていると感じています。しかし、その世界にのめり込みすぎることで失うものも多く存在するのではないかと考えています。
その世界で築き上げた多くの友人は、本当に大切な場面であなたを助けてくれるでしょうか。その世界で振り翳した正義は、果たして誰のための正義でしょうか。表現の自由という大義名分は、誰かを傷つける免罪符になり得るでしょうか。
当たり前ですが、SNSにはいい面もあれば悪い面もあります。誰にも言えない悩みや苦しみを、その世界でわかってもらうだけでも救われることもあります。満たされない何かを満たしてくれることもあるでしょう。しかし、たとえその世界で一時的に人気者になれたとしても、それはあくまで刹那のものです。それを否定も肯定もしませんが、あくまでその画面の向こうにいるのは私たちと同じ人間だということをよく考えて利用していきたいと感じました。

言葉の重み、今回揉めたのも言葉、和解に至ったのも言葉

ペンは剣よりも強し、という言葉がありますが、要は言葉にはそれほど大きな力があるということの例えです。割と昔から言い伝えられている言葉なので、時代が変わってもその実は大きく変わることはないのでしょう。(私もそれほどの意味を持つ言葉を紡げるようになりたいものですが)
本題に入りますと、私とTさんが揉めたのも、まさにこの言葉によるものでした。しかし、私もTさんもあくまで言葉の表面しか見ておらず、今振り返ればお互いを知らなさすぎるが故のトラブルだったように思います。
ここで私が伝えたいことは、言葉のその先なんてほとんど見られることはないということです。でてしまった、出してしまった言葉が全てであり、それをまったく無かったことにするというのはできません。そして、この主張と相反するようですが、その言葉が出るまでには様々なストーリーがあるということです。今回私たちは幸いにもお互いのストーリーを知ることができ和解できましたが、最終的にそこに至ったのもやはり言葉の力であったと感じています。
余談にはなりますが、些細な言葉や何気なく出てしまう言葉に、その為人が現れるような気がします。これは言葉に限らず、むしろ言葉以外のものが占める割合が大きいかもしれませんが、それでも言葉の力が大きいということに変わりはないはずです。

Tさんの本気さ、トラブルになった我々の共通の思い

ここで少しTさんのことについてお話しさせていただきます。私がお見受けする限り、彼は非常に能力が高く、私がこれまで出会った中で圧倒的に頭の回転が速い人間離れしたような方でした。しかし、良くも悪くも素直で少し不器用といった人間らしさも兼ね備えていて少し安心したのも事実です。
その素直さと不器用さが裏目に出てしまったのが今回のトラブルでした。私に関するとある記事に関して、Tさんが抱いた感情は「金持ちのボンボン息子がやりたい放題の人生を送っている、そしてそれをさも誇らしげに語っている」というものだったのでしょう。そしてその感情を言葉にしてしまったことにより、トラブルに発展しました。
忌憚のない言い方をするならば、Tさんの育った環境は決して恵まれたものではありませんでした。詳細は書けませんが、その環境で必死にもがきつづけ、もがいた末にどうにかして勝ち取った権利を誤解され、あろうことかそれを中傷されるような環境でした。その環境を経験した人が私のような人間の一部だけをみたら、前述のようなトラブルを招く感情や言葉を表現したくなる気持ちもわかります。
しかし、冒頭にも述べたように、その正義は誰かを傷つける免罪符にはなりません。そのことはTさんもよく理解してくださいました。
ただ、免罪符にはならない一方で、私はその気持ちを肯定します。むしろ、そりゃそうだよな、大した苦労もしてないくせにドヤ顔で腹立つよな、と感じることがよくあります。誰に対して、何に対してとは明言しませんが、私の中にある感情として目を背けてはならないと感じています。そしておそらくですが、私に対してそういう感情が少なからずいるということも理解しています。もちろんそれも完全に肯定します。
ただ、その感情を表にだすかどうかはまた別の問題です。今回私とTさんが抱く共通の思いは、この感情に起因すると言っても過言ではありません。それについて、次章でお話しします。

知らないことが罪とは言わないが、可能な限り手を差し伸べて。

所詮どこまで行っても私たちは他人です。家族ですら自分自身ではないのです。だからこそ、知らないことがあって当然なのです。ですが、知らない世界を知ろうとすることはできますし、そういう世界があるということを認識することはできます。完全に理解できなくても、少しは何かが理解できるかもしれません。知らないことが罪とは言いませんが、目の前にその世界があって知ろうとしない、剰え自分の世界で完結させようとするのはいかがなものでしょうか。
私がこのサイト運営や記事作成を始めたきっかけがまさにこれでした。私には知らない世界が多すぎる。だからいろんな世界をのぞいて、そこで知ったことを少しでも多くの方と共有したい。
今回TさんがSNSやnoteを運用されていたのもそのためでした。知らない世界を知って欲しいという思いで始めたらしいのですが、いつしかそれらに対して攻撃的なコメントがつくようになった。気がつけば、Tさんも攻撃的にならざるを得なかった。まさにお互いが知らない世界を自分の世界で上書きし続けるよいうなことを繰り返していたのではないかと感じました。
知らない世界を知り、そこに少しでも手を差し伸べられるようになれば、何かが起こるのかもしれませんね。





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ライター紹介

三重県伊勢市出身。文藝春秋で2年ほどコラムを書いた経験から、文字を通じて伝えることの楽しさを学ぶ。同誌で2022年度コラム部門新人王受賞。自身をはじめ、様々な人の人生から得た学びを伝えていく。

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